ペリー来航-日本・琉球をゆるがした412日間
経済史のリポートで明治維新期の諸制度について調べていて、当時の『欧米列強による外圧』の様子が知りたくなって読んだ本、『ペリー来航 - 日本・琉球をゆるがした412日間 (中公新書) 』。
ペリー来航について、知っていることと言えば、
- ペリー来航 → 日米和親条約
- 泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず
くらいだったので、驚くべき事実とおもしろエピソードに夢中になって、一気読みしてしまった。
嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航(Wikipediaより)
ペリー艦隊の長旅
まず驚いたのが、ペリー艦隊が、アメリカ西側から太平洋を直行してきたのではなく、東海岸から大西洋を横断し、アフリカ南端の喜望峰をぐるっとまわって、遠路はるばる、東の島国へとやってきたのだということ。
その旅路のはじまり、ペリーが海軍基地ノーフォーク港を出港したのは、1852年11月24日。
予定では、最低でも10隻の軍艦を率いる予定だったのに、出発までに準備が間に合わなかったり、故障したりする艦が続出して、蒸気船ミシシッピ号1隻のみで出発。後から出発した帆走船と香港で合流し、上海で軍事行動中だった船も加えて、艦隊として最低限の陣容を整えて、琉球へ向かう。
ペリー艦隊が琉球の那覇沖に到着したのは、1853年5月26日。
琉球王国との交渉や、小笠原諸島での調査を経て、浦賀沖に最初に来航したのが、1853年7月8日。この時点で、アメリカ出発からすでに7か月。
そして、日米交渉の後、翌年の再来を予告して東京湾を退去したのが、1853年7月17日。
そこでいったん、本国アメリカに帰ったのかと思ったら、その後さらに、琉球と交渉を重ね、秋冬は香港・マカオ付近で過ごして、翌年再び日本へ。
結局、ペリーが帰国の途についたのは、1854年9月11日。都合、2年近い任務で、その間ほとんど船の上で過ごしていたであろうことを考えると、いろんな意味で過酷な仕事だっただろうなと思う。
「ペリー来るってよ」(オランダ商館長談)
ペリー来航は、当時の日本にとってまさに『青天の霹靂』だった、というイメージがあるけれど、実は1年も前に幕府はその情報を得ていたらしい。
そして、幕府は何をしたかというと、
ペリー艦隊の来航については、前年の1852年6月に長崎のオランダ商館長ドンケル・クルティウスが長崎奉行の牧義制を通じて幕府に予告していた。しかし老中の阿部正弘は、この情報を海防の任にあたった少数の大名や旗者に伝えただけで、具体的な対策を講じることができなかった。そのため、無為な時間が流れ、人びとはほとんど準備もなしに艦隊を迎えることになった。
何もしなかった!
その頃、幕府は財政困窮に苦しんでおり、海防を強化したくてもできない。このまま鎖国をつづけたい。。というモラトリアム状態にあった模様。
決断できない老中、外交能力高い与力
はたして、ペリー艦隊はやってきた。
来るってわかってたのに、慌てふためく幕府。
老中や若年寄を招集し、江戸城内で夜を徹しての協議がなされる。さんざん時間をかけた挙句、浦賀奉行に「国書を受け取る準備をせよ」と命令を出して、現場に丸投げ。
実際にペリー側との交渉にあたったのは、浦賀奉行所の与力や通詞(通訳)たちだった。
与力とは、将軍に謁見することができない『御目見以下(おめみえいか)』の下級武士。けれども、「幕府の高官じゃなきゃダメ」というペリー側に対し、とっさの機転で『副奉行』を名乗るなど(浦賀奉行所には副奉行という役職はなかった)、度胸とハッタリで乗り切る。香山栄左衛門という与力にいたっては、洗練されたマナーや教養で、優れた外交能力を発揮したらしい。すてき、与力。
そうして、ペリー艦隊が再来を予告して去った後、幕府はペリーから渡された国書の内容を検討。再来の直前になってから、具体的な要求項目について、確たる回答をしないことを決定し、交渉をできるだけ引き延ばすことを通達。
しかし、いざペリー艦隊が再来すると、圧力に負けて、結局は交渉することになるのだった。なんでこう、後手後手なんだろう、幕府。
最強のデモンストレーション
二度目の来航の際、ペリーはアメリカの工業力を日本側に誇示するため、多くの工業製品を幕府への献上品として持参していた。
その中で特に日本人の関心を集めたのが、実際に設備を敷設して、デモンストレーションが行われた、蒸気機関車と電信機。
蒸気機関車は、横浜村(横浜市中区)の麦畑に1周100メートル以上の線路が敷設され、汽車が組み立てられた。小型ながら、機関車は本物。
電信機は、横浜村から現在のJR桜木町駅方面に向けて、何本も電信柱を建て、電線を張った上で、言葉を送信する実験を披露。
。。すごすぎ。ここまで大がかりなデモンストレーションを目にした当時の人たちの驚きは、いかばかりだったろう。(幕府は一般の人びとの見物を規制したけれど、当然目に入る)
そして、『工業力』もさることながら、海軍のプレゼン能力と企画力、恐るべし。
相当、用意周到に準備されていたのだろうし、これだけのことをするためには、おそらく軍属の技術者が大勢、艦隊に含まれていたに違いなく、アメリカ海軍の組織としての『厚さ』と年季に圧倒される。
さて、これに対抗して、日本側は。。
お相撲さん動員!
幕府は大統領やペリーへの贈り物を横浜村で披露。
絹織物、硯箱、書棚、紙、漆器、炭などがペリーへの答礼品として用意され、江戸から運ばれた。また、艦隊乗組員全員への贈り物として米200俵と鶏などが用意された。米俵の運搬には江戸から力士が呼び寄せられ、横浜村の砂浜では力士によって米俵が積み上げられた。米俵は1俵が60キログラムあったが、力士は一人で2俵の米俵を軽々と運んだ。
なぜ力士を呼び寄せたのかと言うと、
幕府は体格の良いアメリカ軍将兵を目の当たりにし、日本にも大きな身体の人がいることをペリーに見せつけたいと考えたと言われている。
実際、ペリー側の記録に『巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる巨漢の一団に釘付けになった』という記述が残されているところを見ると、とりあえずインパクトを与えることには成功したようである。
ペリー来航なう
こうした一連の事件は、『黒船瓦版』で一般の人びとにも知れ渡った。
幕府が関係者に警備場所を通達した触書や達書から、東京湾の防衛体制についての情報も拡散され、さらには国際情勢も報じられていたから、当時の庶民たちは、決して情報弱者ではなかった模様。その前提として、庶民レベルでの識字率の高さがあったのではないかと思う。
本の中には、これら瓦版の他、ペリー側の記録『ペリー艦隊日本遠征記』からの絵も多数掲載されており、見ていて楽しい。
琉球そして沖縄の受難
なお、ペリー艦隊は日本に先立って、琉球を訪れており、その様子や交渉のプロセスについても、詳しく書かれている。
上記のような、江戸幕府との交渉や一連の行動からは、忍耐強く紳士的な印象を受けるけれど、琉球との交渉の仕方は、また様相が異なるのだった。
琉球、そして沖縄の、アジアの要所に位置するが故の受難の歴史について、考えさせられた。
『経済史』の関連で手に取った本だったけど、もっと広い意味で勉強になった。
読み終わってみて、新書版の一冊に、これだけの情報が詰まってるってすごい、と思う。
横浜開港資料館
ちなみに、上述の機関車や電信機のデモンストレーションが行われた横浜村に、現在は横浜開港資料館が建っていて、その副館長さんが、この本の著者。
米俵をかつぐお相撲さんたちの絵も所蔵しているようなので、ぜひ一度見に行ってみたい。
書籍情報
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