ダライ・ラマ愛の詩集
折に触れて読み返している、お気に入りの詩集がある。『ダライ・ラマ六世 恋愛彷徨詩集 』。
最初、何の予備知識もなく、この本を見つけた時、ダライ・ラマの詩集? 恋愛?? とすべてが謎だった。さらに、その詩を読んでみて、びっくり。
柔肌(やわはだ)熱く燃ゆる娘(こ)は
褥(しとね)で我を待ち焦がれ
若き男(お)の子の財宝を
偽り盗みとらんとや
この艶めかしさ。。ダライ・ラマなのに。
(七五調のリズムの美しさは、翻訳者の力量なのだと思う)
この詩を書いたダライ・ラマ六世は、ドラマ以上にドラマチックな一生を送った人物だったよう。まずは時代背景から。
七世紀に始まり、以後十世紀の長きにわたるチベットの全歴史を通じて、ダライ・ラマ六世ツァンヤン・ギャムツォ(1683-1706)ほど希有な人生を送った人物は他にいないであろう。彼が生きた時代は、世界の屋根チベット、モンゴル平原、中央アジア、中国という広大な舞台で、「征服王朝」である清朝を樹立した満州人、北アジアの草原に覇権を誇るモンゴル人、そして軍事的、経済的に優勢なこの二民族を相手に、仏教の権威で対抗しようとするチベット人、この三者が、互いに策略を弄し、三つ巴となって鎬を削った、東アジア史上最も錯綜した激動の時代であった。当時チベット仏教は、チベット人のみならず、モンゴル人、満州人のあいだにも深く浸透していた。満州族の清朝は、チベット仏教の権威の下に諸民族の政治的融和を図るべく、その頂点に立つダライ・ラマ五世ンガワン・ロサン・ギャムツォ(1617-1682)を利用しようとしていた。
このあたりの歴史背景に無知な私は、これを読んですごく勉強になった。こうして政治的陰謀が渦巻く中、ある少年がダライ・ラマとして『認定』される。その運命やいかに。。
こうした状況下で、ダライ・ラマ五世没後、ヒマラヤ山脈の南麗に生まれたブータン人の血を引く少年が、ダライ・ラマ六世として認定された。彼は、チベットの首都ラサのポタラ宮殿に招き入れられ、この政治的激流の中に否応なく放り込まれ、翻弄された。彼は、チベット仏教界最高権威の化身、ダライ・ラマとして養育されながら、成人するや、僧侶としての道を歩まず還俗し、ラサの街に浮名を流し、廃位され、二十年あまりの短い生涯を終えた。その特異な生き方にも拘わらず、あるいはそれ故に、彼が残した恋愛詩は、現在に到るまでチベット人に広く愛唱されており、彼は歴代ダライ・ラマの中で最もチベット人に親しまれているダライ・ラマである。
<『ダライ・ラマ六世 恋愛彷徨詩集』訳者解説より>
激動の時代を生き、政治に翻弄され、恋に身をやつして早世したダライ・ラマ六世。失礼ながら、『宗教的権威』として君臨した、とは言い難い。型破りなだけに、突っ込みどころも満載。
娘を想う我が心
正しき御法に向かいなば
今生この身即身に
成仏まさにまがいなし
一見、とても高尚な詩のようだけど、言っている内容としては、「恋にうつつを抜かしてるオレだけど、このエネルギーを仏の道に向けたら、即身仏にだってなれそうなんだけど。いやマジで」ということかと思われる。
加えて、周囲の人たちも、
恋する二人の出逢いしは
酒場のおかみの手引きなり
愛の証の生まれなば
汝自ら育まん
いいのか? おかみさん。ダライ・ラマに若い女性を引き合わせたりして。
とはいえ、彼が歴代ダライ・ラマの中で最もチベット人に親しまれている、というのも、よくわかる気がする。
聖人君子たるべき人物が、文字通り聖人君子であるだけでは、人の心のよりどころとしては、じゅうぶんではないのかもしれない。
一連の詩を読めば読むほど、人の心と、業の深さについて、考えさせられるのだった。
ついでながら、試験やリポート期限が近づくほど、こうして詩集をじっくりと読み返したくなってしまうのもまた、人間の性だろうか。深みもなんにもないけれど。
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