それって本当に合理的で効率がいいのか問題
通信制大学で勉強を始めて以来、よく考えることがある。
勉強するのって、すごく時間がかかる。これって、どうしたもんだろう? 何か無駄なことやってるんじゃないか? もっと合理的で効率のいいやり方があるんじゃないか?
さらには、この時間を仕事にあてるべきだったんじゃないかと思って、ちょっぴり後ろめたささえ感じてしまう。これだけの時間をかければできたであろう仕事の量を想像して、頭の中で『機会費用』の見積書を作成してしまう、はしたなくも現金な自分。
けれども、もどかしい進み方ではあるものの、じょじょに土台ができてくるのを実感するにつけ、勉強に手っ取り早い『ショートカット』なんて存在しないことがわかってくる。
すると今度は逆に、これまで仕事の時に、合理的で効率のいいやり方をしてきたつもりだったけど、はたして本当にそうだろうか? といぶかしく思えてくるのだった。
仕事に効率とスピードが必要なことは事実だ。とはいえ、特に組織に属していた頃は、立ち止まって考えることさえ許されない雰囲気があったように思う。そして、とりあえず手を動かして『仕事してます』というポーズをとることも、仕事の効率と同等もしくはそれ以上に重要だった。
そんな環境に長らく身を置いていると、『合理的で効率がいい』というのが、知らず知らずのうちに『その場しのぎになる、手っ取り早い』とすり替わっていたりする。
そうして、例えば、直接的・間接的に会計知識が必要になる場面は多々あったのだけど、『効率』を重視して、本当に最低限必要なところだけ、局部的にちゃちゃっと調べて、済ませてしまう。当然ながら、それらの知識がつながったり深まったりすることはなく、ふたたび必要に迫られた時、デジャヴを覚えつつ、またもや、ちゃちゃっと調べてやり過ごす。それを繰り返すこと、ン十年。
それが本当に『合理的で効率がいい』やり方であったかどうかは、アラフィフになった今、結局、一から簿記会計を学んでいるという事実を見れば、一目瞭然だ。
痛い。けど、ちょっと痛気持ちいい。自分でも意外だけど、『学び』に飢えていたんだと思う。
最近は『手っ取り早い』ことに惑わされず、ちゃんと考えるように心がけている。
ちゃんと考えた結果が、トンチンカンなこともわりとあるのだけど、それはまた別の話だ。
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